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  Twitterも一応やっています。

2010年12月13日

観戦記の未来

 現在新聞の観戦記は危機にあると思う。

 昭和のはじめ、院社対抗戦の観戦記を掲載し、著名な文人に担当させるなどして発行部数を実に3倍に伸ばしたのが読売新聞社である。読売が一流紙に並べたのはこの興行が当たったからだ。当時囲碁はそれだけ魅力的なコンテンツだったわけで、各紙囲碁欄にはお金もかけたし、そのかいがあった。

 現在趣味の多様化とともに囲碁の地盤沈下も手伝って、囲碁欄にそのような魅力がないどころか囲碁ファンでも囲碁欄をさほど注目しなくなった。一つには長くても2日で結果が出る対局を、数日い置いてから数回に分けて連載するという情報提供のテンポが、全く時代に合わなくなったからだといえる。昔はいち早くプロの棋譜を目にする数少ない手段であり、直接対局を目にする機会を得られない読者にとっては観戦記者の筆と自らの想像力こそがすべてであった。現在ではリアルタイムで進行を確認できたり、場合によっては対局風景も見られる。囲碁欄に登場するころには情報としてほとんど死んだ状態になっていると言ってもよいし、観戦記の必要性も著しく低下したのだ。

 この傾向は覆しがたいので、新聞観戦記はいずれは滅びる運命にあるのだろうし、未来だけを考えるならばネットでの情報提供の方法を考えていくことだけに絞ればよいかもしれない。しかしここでは、あえて既存の新聞観戦記を存続させるとして、どのような工夫があるかを考えてみたい。

 まず新聞観戦記の最大の問題点は、いつどの棋譜が掲載されるかが不明でしかも対局時と掲載時の時差が大きいので、たとえある対局に興味があったとしても観戦記を見逃すことが多いということだ。これは日本棋院や主宰紙が真剣に考えるべきことである。ネットなどであらかじめ掲載予定を発表するなどの工夫があってよい。Twitterの利用も面白いのではないかと思う。

 また棋譜の著作権の問題もある。
 著作権の保護は確かに重要である。しかし著作権はただ強化すれば利益になるとは限らない。著作権を強化しすぎれば利用そのものが減って、著作権保持者の利益を損なう。新聞観戦記もそうで、主宰紙に掲載されるまで棋譜は一般公開されない場合がほとんどだが、そのことが本当に利益を生み出しているか疑問に思われる。
 囲碁(ボードゲーム)の特徴として、何が起きたかは見ればわかるが、それが何を意味するかはは実力がなければわからない。(棋力に応じて解釈が存在するともいえる)棋譜を公開しただけでは、ほとんどのファンにとって十分に意味をなさない。ほとんどのファンにとっては解説があって初めて棋譜は意味をなす。そこに観戦記の必要性があり、棋譜を早期に発表することはむしろ宣伝になるのではないだろうか?
 さらに対局された棋譜を個人のブログなどに引用しやすい形で提供していけば、利用者の記事を追跡することで「一般のファンが何を疑問に思っているか」「どの部分を解説してほしいと思っているか」「何を誤解しているか」などといったことが判明し、よりニーズにあった観戦記を書くために指針となるかもしれない。

 いずれにしても、昔と同じようにただただ記事を作るだけでは新聞観戦記に明日はないと思われるが、その工夫が見えないのが不満である。 
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2010年02月17日

敗着の心理分析

 平岡聡さんが世界アマチュア囲碁選手権で初優勝したとき、『棋道』で大きく取り上げられ、中国戦の棋譜も詳細な解説付きで掲載された。(『囲碁クラブ』でもアメリカ戦の棋譜解説中心に大きく取り上げられていたような気がする)内容は完勝で、平岡強しの強烈な印象が今でも残っている。その記事の中に「敗着の心理分析をするのが好きです」というひとことがあり、それがひじょうに心にひっかかてきた。

 私自身は基本的に囲碁は盤面を見て打つものだと考えるタイプで、相手が誰かということは考えないし自分の心理状況などというものも興味の外だ。答えはすべて盤上にあるのであって、より正確にその局面を理解できたら勝てると思っている。着手の意味や効果を考えることはあっても、その着手の裏にある「心理」などというものにはあまり興味がなかった。今でも基本的にはそうだ。「敗着の心理分析」などをするという意味がぴんとこなかった。

 ただここ数年いろいろ考えるところがあって、この「敗着の心理分析」は非常に面白いし、有意義なことだと思うようになった。

 人間だから悪い手を打ってしまうし、悪い手を打てば負けてしまう。そこで問題なのは、悪い手を打とうとして悪い手を打ってしまったのではなく、良い手だと思い込んでいたり、勝つための一手として悪い手を打ってしまうことだ。悪い手を論破することや、良い手といわないまでもそれよりましな手を示すことはそう難しくない。しかしそれはなぜそんなつまらない手を打ってしまったかという答えにはならない。自分の敗着であろうと、誰かの敗着であろうと、それはその瞬間にはいい手だと(少なくとも悪い手ではないと)思って盤上に置かれたのだ。なんでそんな錯誤が起きたかを深く追求することは重要だし、そのときに「心理」を考えることは非常に重要だ。どういった状況になると自分はどんな行動に出るのか。自分が形勢判断のミスをするのはどんなケースが多いのか。そういうことを知るのはとても有意義だ。

 これは第16期棋聖戦7番勝負第7局の1場面である。挑戦者山城宏九段が黒番、小林光一棋聖が白番。

10021701.jpg

 黒1を絶対の先手と見ていた山城九段は白2を見てびっくり。白6が変な形だが、最強の頑張りで白は死なない。(この手の奇妙な姿と、その意外な効果には見ている方も驚いた)これは単純な見落としだろう。
 問題はこの後で、実はこの白は死なないが、黒が巧妙に攻めれば大きく寄せることが可能なのである。(実はその手順がわからなくて今困っている・・・)その手段を効果的なタイミングで行使していれば黒は大分勝ちやすかった。山城九段は最後までそれを見逃し細碁になり、細碁は小ヨセで2目損して半目負けという、悪夢のような負け方をした。(小林光一棋聖は7連覇を達成)

 山城九段はなぜその手段に気がつかなかったのだろうか?山城九段はトップ棋士であり、当時絶好調だった。時間もたっぷりある2日制の碁。どう考えても山城九段なら気がつきそうなものだ。それを見逃したのは、どう考えても白6を見損じた後悔や動揺のために、読みに粘りを欠いたとしか考えられない。

 自分でもそういうことがあるし、毎日碁席で他人の碁を見ているとよくわかるが、人間にはミスに気がつくとかっとなって早打ちになったり、ミスをした部分から目をそむけて何も考えなかったりする習性がある。ミスをしたら、どういうミスなのか、どれくらい損してどういう状況になったのかということを客観的に把握することが重要だ。そのうえで新しい計画を練り直さねばらなない。それは当たり前のことだが、実に難しい。人間には心があるからだ。最近は、本当の意味でミスを減らしたいならば、自分の心理状況も含めて反省してみる必要があると考えている。そうしないと、知識をいくら増やしても同じ過ちを繰り返す恐れがあるのである。

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posted by das53jp at 19:48| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

武者修行

 現在日本と中韓との実力差はかなりあると言っていい。客観的に見れば囲碁の普及度と育成システムが違いすぎるので仕方のないことかと思う。現状考えれば、むしろ善戦しているのかもしれない。

 ただちょっと気になることがある。

 以前は中国や韓国の棋士が日本に来て勉強していたわけだが、立場が逆転した以上、日本の棋士は向うへ渡って勉強する機会をもっと増やさないといけないのではないかと思う。中野杯や新鋭対抗戦などの機会はあるが、それでは足りないのではないか。個人的にでも向こうに留学するぐらいの気合のある棋士はいないのだろうか。日本棋院も若手の有望棋士などを数カ月中国や韓国などに送り込むくらいのことは考えていいと思う。(中国ならさほど生活費がかからないと思われるので、東京の都心で暮らして囲碁をするよりもコストパフォーマンスもいいようなきがする)

 昔の中国棋士は、囲碁の勉強のために日本語も勉強していた。聶衛平は対局中に日本語でぼやいたりしていた。今日本の棋士で最新の囲碁情報を得たくてハングルや中国語を勉強している棋士は何人いるんだろうか?(確か瀬戸大樹七段はハングルを勉強していた気がする)


 今の日本棋院を見ているとかつての囲碁大国の看板を下ろせずにいて、学ぶ謙虚さみたいなものに欠けているのではないかと思ってしまう。

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posted by das53jp at 21:20| Comment(4) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

李昌鎬の生涯成績

 日刊囲碁に李昌鎬の1500勝達成に関する記事が出ていた。(こちら)
 1500勝463敗。なんともすごい成績である。2000局を目前にして、いまだ3勝1敗ペースを維持している。1000局以上打って、2勝1敗ペースを維持できたら一流棋士である。この数字はそれをはるかに超えており、まさしく超一流の数字である。

 ちなみに将棋界のスーパースター羽生善治名人の2009年までの通算成績が1082勝415敗、勝率0.723である。(玲瓏より)この数字も空前のものに思えるが、李昌鎬はこのはるか上を行っている。もちろん羽生名人の方がレベルの高いライヴァルに恵まれたという側面もあろうが。

 ちなみにテニス界のスーパースター、ロジャー・フェデラーの通算成績は681勝162敗と8割を超えている。競技の違いがあるにせよ、これもものすごい数字。もっともほぼトーナメント戦だけのテニス界だと8割はありうる数字で、コナーズ、ボルグ、マッケンロー、レンドルといった歴代の名選手は生涯成績で8割越えを達成している。もちろん、テニス選手は将棋や囲碁の棋士に比べて早く引退できるということもあり単純比較は難しいかもしれない。(テニスのデータの話に関しては「レンドル最強説」が面白い)
 
 今回名前を挙げた3人のレジェンドは、ともに年齢を重ねて最近は徐々に厳しい状況に直面している点で共通している。いまだに素晴らしい力を発揮しているが、絶頂期と比べるとずいぶん苦労するようになった。
 3人のうち、最も厳しい立場になっているのが李昌鎬だろう。最近は世界戦優勝がなく、思わぬ若手に足をすくわれることもしばしば。世界戦の決勝にコンスタントに残るところを見ても実力はまだまだ上位だが、ここ一番で勝ちきれない状態が続いている。最近のインタビューで「後15年はトップ棋士でいたい」と述べており、まだやる気は十分あるようなので期待したい。来月はLG杯の決勝3番勝負を中国の孔傑と戦う。孔傑は三星杯も制しており、意気軒昂。ここ最近のパターンだと、あっさり孔傑が勝ちそうな予感さえあるが、ぜひ熱戦を期待したい。

※3人のうちでもっともはやくプレーを止めるのは当然フェデラーだろう。フェデラーが元気なうちに一度ウィンブルドンで試合を観戦してみたいものだ。

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2010年01月18日

置碁のすすめ

 囲碁というゲームの優れているところのひとつに置石によるハンディキャップが効果的で、かなりの実力差があっても勝負として楽しめることがある。将棋、チェスなどで駒を落とすこともできるけど、囲碁ほど柔軟にはいかない。スポーツではなおさらで、ゴルフでかろうじて打数でハンディキャップをつけて遊ぶくらいではないか。

 ただ置碁がいやだという人も中にはいて、それは人それぞれでよいのだが、碁席などの対局は置碁が欠かせないので困ったことになる。多人数がアクセスするネット対局ならば、どんな棋力の人でも実力伯仲の相手がすぐ見つかるかもしれないが、碁席ではそうはいかない。置き碁を倦厭されるとお手上げである。

 初心者から中級、上級と這い上がってきたひとは、そこまでの道程でほとんど置く側で対局してくるわけだが、だんだん棋力が上がるにつれて後進に置かせて打たねばならない場面も出てくるだろう。これを嫌がる人がいる。もちろん気持ちは察して余りあるが、自分も先輩に胸を貸したもらってきたことから考えれば、ぜひ快く置碁を受けてもらいたいものだと思う。棋道上達の道は譲り合いの精神が大事だ。

 それに、置かせて打つのはすごく勉強になると思うのだ。
 自分が置いて打つときは、白がすごく強く見えるものだし、勝つのは難しいことのはずだ。しかし、いざ自分が白を持ってみると、神秘的な白の魔力などというものは存在せず、置石が無言の圧力をかけてくる。片側からだけ見るのではなく、逆の立場に立つことでいろいろなことが見えてくるはずだ。

 置かせる碁に初挑戦する人にアドバイスすると、勝つことよりもとにかく粘り強く打って作り碁を目指すことである。置碁の白はもともと不利なのだから負けることは恥ずかしいことではない。
 置碁の白番に慣れない人が失敗するケースは、ほとんどが一気に巻き返そうと焦って序盤で無理しすぎて自滅するというものだ。勝てなくてもいい、負けが少しでも小さければいい、そう思って息長く打つことをお薦めする。
 そうすると、下手(したて)の意外な欠点が見えてくるはずだ。もう何もしなくても勝っている場面での蛮勇。小さなミスをついて、しかし「この程度じゃ全然追いつかないなぁ」と嘆息していると、無理に挽回しようとして自ら傷口を広げてくる。あるいは、ミスしたあと落胆し雑になり損を重ねる。置碁では、普通では到底ありえないような得をすることもあるのだ。上手(うわて)からみれば下手の乱れはしばしば不可解だ。
 そうして見えてくる下手の欠点は、おそらくは上手に置石を対したときの自分の姿と相似形のはずで、上手と打っているだけでは気がつかない自分の姿を客観的に見る機会になるのである。そうして自分の姿が見えれば、上手と対したときに今少し粘り強く戦えるようになるかもしれない。

 真実の姿は、置いても置かれても碁は難しいということだ。置いた方には置いた方の苦労が、置かせた方には置かせた方の苦労がある。どちらが楽ということはあり得ない。それぞれの立場に長所短所があって、ものごとは案外つりあっている。短所ばかりに目を向けるとあれはいやこれもダメということだが、よさもわかれば置いても置かせても互先でもそれなりに楽しめる。囲碁を幅広く楽しむためにも、積極的に置き碁も打って方がいいと、私は思う。


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2010年01月08日

打碁集不足

 個人的に、最近は面白い打碁集が出ないというのが悩みなのですが、よくよく考えると打碁集が出版されていないわけではありません。最近だけでもこんな感じ。




 どちらもよい内容でお面白い。秀甫の方はシリーズ本で、すでに秀和、秀策、丈和、大仙知が出ています。

 しかしです、それでも打碁集不足を感じてしまいます。それは何故か?それは新味に乏しいから。現代の棋士の打碁集が全然出版されません。
 グランドスラムまであと一つと迫っている張栩十段、名誉棋聖までやはりあと一つまできている山下棋聖、これまでに天元棋聖本因坊を獲得している羽根本因坊、名人本因坊を達成している高尾九段。これだけの実績があれば、昔ならまとまった形での打碁集が出ていました。もっとも依田先生ぐらい国内国外の実績のあるベテラン棋士でさえそうなのですから当然と言えば当然ですが。昔の感覚でいうと異常事態。

 理由はいくつか考えられて、不景気、囲碁人気の低下、日本の囲碁での国際的地位低下というようなことがあげられましょうか。
 初級者向けの問題集といった実践的な書籍に比べ打碁集は売れないものです。(棋譜並べを楽しむひとは囲碁ファンの中でも限られる)売れないものをわざわざ苦労して出版するのは愚策という経済的な論理があるでしょう。これは昔からあったのかもしれませんが景気の低迷の影響は大きいと思います。
 そして、囲碁ファンの減少で、ただでさえ少ない打碁集ファンが減ってますます売れなくなるという悪循環があるでしょう。
 さらに、日本の棋士が弱いということが国際棋戦ではっきり結果として残ってしまっています。その影響も大きいでしょう。昔は日本の名人=世界の第一人者でした。昨年最大の話題は井山新名人誕生ですが、井山名人も国際棋戦では苦戦しています。棋士の商品価値はやはり強さですから、世界戦での成績低迷が打碁集の売れ行きに影響するのは当然で、出版の逆風になるでしょう。

 そういうことは理解できるのですが、やはり打碁集を出す努力はしてほしいですね。棋譜は棋士の命、それを一般のファンに伝えるのが打ち碁集ですので。

 加えて、世界の覇者の打碁集も出てほしいですね。李昌鎬、李世石、常昊、古力。打碁集は無理でも、こういった棋士の棋譜を自戦解説で並べてみたいものです。第一人者の考えていることというのには興味があります。日本の囲碁雑誌(週刊碁を含む)は世界戦の扱いが低すぎるのでがっかりです。

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タグ:打碁集
posted by das53jp at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月06日

手つき

 依田先生のブログ、「ヨダログ」に着手の手つきに関する記事があった。(「手つき」「手つき2」)手つきと棋力に関してはアマチュアながら深い「手つき研究」で知られるniphaさんも繰り返し取り上げている。(例えばこちら)

 個人的には手つきの美しさもそうだが、石を扱う丁寧さみたいなもので、その人の棋力が分かると思っている。強い人ほど丁寧に石を扱うし、しっかり着手する。
 たまに勢いよく石をたたきつけてはいるが、ただ勢いだけでちゃんと交点に石が置けなかったり、ずれてもお構いなしの人もいる。こういう人は大体弱い。心の乱れは石の乱れで、ちゃんと石を置けないようでは碁は負けとしたもの。
 手をしならせて気合よく放たれた一手にハッとさせられることがあるのはもちろんだが、熟慮のあとにすっと丁寧に着手された石に相手の自信や決意、読みの深さを感じることもある。一口に美しさというが、なかなか着手の表情は豊かであり、そこが奥深いところである。

 もっともところ変わればではないが、着手の美しさも国によって違いそうだ。中国に行ってみてわかったが、中国の碁石(片側がたいら)はそんなに生きよいよく打ち下せないものだし、そもそも「打つ」というよりも「置く」という方が正しい扱い方なのかなとも思った。

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posted by das53jp at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月19日

安祚永

 韓国の(中国もそうだが)若手は次々と新しい選手が出てきて名前を覚えるのも大変だ。しかも、みな似たような碁を打っているので、名前を伏せられてしまうと誰の碁だかさっぱりわからない感じだ。
 しかも消えていくのも早い。最新のランキングはこうだが、いつの間にか高根台とか温昭珍の名前が無くなっている。兵役という可能性も高いが、日本の棋士はなかなか達成できない世界戦でベスト4、ベスト8といった成績を残した棋士でも20代中盤になると上位を維持するのが困難なことは多いようだ。(ここ数年安定した成績を残している”ベテラン”趙漢乗九段は、最近入営したらしい。彼は安定感抜群の棋士だがどうなるだろうか)韓国の棋士を見ていると、棋士が消耗品のように見えてくるのが悲しい。みな工業製品のように安定したパフェーマン巣を発揮し優秀だが、時期が来ると消えていく。

 韓国の棋士(トップ棋士をのぞいて)一番好きなのは安祚永だ。
 結局ほとんど大きなタイトルは取れなかったが、抜群に面白碁を打つ棋士だ。韓国の棋士というと集団研究したシステム布石というイメージが強いが、安祚永が独自の構想力を持っており、しばしばならでは趣向を見せてくれる。韓国棋士はギシギシと石音がするようなハードヒッターが多いが、安祚永はそのなかでは柔らかなタッチを持っており非常に珍しい。振り替わりや変化で鮮やかに一本を取ることも珍しくなかった。
 現在は14位。入れ替わりの早い韓国棋士の中で30歳にしてランクインしていることが安祚永の才能を示していると言えないでもないが、だんだん棋譜を見る機会も少なくなってきており残念だ。

 安祚永にかぎらず、条件(日程や持ち時間)さえ整えばまだまだ魅せる碁を打てる棋士は少なからずいると思うので、スポーツでいうところのシニアツアーの様なベテランの活躍の場を作ってもらいたいものだ。

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タグ:安祚永
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2009年12月07日

データ活用

 囲碁ファンを増やす努力は、なんといっても草の根の活動にあると思うが、一方で少しでも囲碁に興味を持った人が簡単に楽しめるような演出やサービスというのはとても大事だ。

 日本棋院のHPを見ていつも不満に思うのは、情報量。棋戦の結果などはみられるものの、ただ載せてあるというだけで見難い。また棋士の自個人成績などや対戦成績は調べられない。

 私はスポーツ観戦が好きなのだが、ただ単純に観戦するというだけでなくデータがあると非常に面白くみられる。

 MLB.com
 ATP World Tour

上記はよく見るサイト。
 メジャーの方は最近あまり見ないが、ここ数日の記録から歴史上の名選手の生涯成績までありとあらゆる数字が調べられる。
 ATPの方も、選手個人の成績から、大会別、サーフェス別の成績、獲得賞金までいろいろ検索できる。
 こういうものがあると観戦が面白くなる。

 囲碁界も棋士の個人成績を整理して公開してほしい。棋士の個別の対戦成績や、手番(先手後手)別勝率、持ち時間別の勝率、国際棋戦の勝率、獲得賞金などが調べられたら面白い。そうすれば囲碁を深く知らない人でも楽しめる要素が出てくると思うし、すべての結果が分かりやすく開示されることでさまざまな問題点も浮き彫りにできると思われる。
タグ:日本棋院
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2009年12月01日

訃報 梶原武雄九段逝く

 石心梶原九段がなくなった。ずいぶん前から体はよくなかったようなので、最近はつらい日々を送られていたのではないかと想像する。棋道に生涯とささげた先生なので、肉体の苦痛から解放されたいま、天国でも続きの研究を始めているのではないかと思う。

 梶原九段は、タイトルにこそ無縁だったが戦後の囲碁の発展に多大な影響を与えたひとである。藤沢秀行と双璧かもしれない。ことしはそういう意味で象徴的な年となった。

 早稲田大学囲碁会の会誌(91年創刊)は「O.W.A」というのだが、これは梶原語のひとつ「おわ」から来ている。まあ一応「王者を目指す、早稲田の、新たなる挑戦」という意味もあるのだけど・・・
 記念号(多分10号)のときには、なんと梶原先生に「おわ」と揮毫していただき、それが表紙に使われている。棋院で働いているOBを通しての交渉だったと思うのだが、「石心」などと揮毫を頼まれることは多くても「おわ」は前代未聞で先生も面喰らったであろう。しかし案外快く書いてくれたそうだ。

 今日は供養に『石心梶原』から代表作を1局アップしました。鑑賞しましょう。棋譜を開く
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2009年06月09日

セドルの休業宣言

 セドルが1年半も手合いを休むという。韓国棋院側の対応はまだ出ていないので、今後どうなるか不透明。推移を見守りましょう。

 囲碁のトーナメントプロの特徴として、基本的に全棋戦参加するということがあるでしょう。打てる限り打つ。テニスでもゴルフでも出るトーナメントを選択するのに対して対照的です。
 囲碁は一般スポーツと違って、対局を重ねても直接的な故障は起こらないからでしょうが、それでも肉体が疲労するのは明らかな事実。勝てば勝つほど対局が増えていくわけですから、出場するしないを決める権利はは選手側にあってしかるべきと思います。

 日本国内で見ると、トーナメントに参加する資格もない(やる気がない)棋士が参加している一方で、忙しくて少し休養したトップ棋士は休めないというねじれた現象が。プロの世界は、実力がなければ参加できないというのが本来ですし、逆に充分な実力があるならば打つ手合いを選べてもよいと思います。
 
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2009年03月19日

日本の

 『李昌鎬ファイル』
 朴治文氏は「日本のプロ社会は非常に個人的である」と指摘している。これは鋭い指摘だ。


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 中韓と大差をつけられてしまった日本だが、よくある批判に中韓のような徹底した集団研究が行われていないという指摘がある。
 個人的には、中韓との差の原因のほとんどは囲碁の普及度の違いにあると考えている。単純だが囲碁に取り組むこどもの数が違いすぎる(文字通り桁が違う)のであって、他のことは末節である。だから集団研究をしたからといって差を埋められるとは限らないし、「集団研究」という言葉が独り歩きして、何かみんなで研究会を行えば中間との差が詰まるという幻想に取り付かれている向きもある。「集団研究」とは何なのかをよく考えてみることも必要だろう。


 日本にも研究会というものは沢山あり、集団で勉強するということが皆無ではなく、むしろ一般的なことだ。しかしそれでも中韓と違いが生じるところに日本の囲碁界の特質というものがあるのだ。

 集団研究の差がもっとも出る分野は布石で、中韓では猛烈な勢いで布石がシステム化している。ただそれは単に集団で研究しているからというだけの違いで起こるのではない。日本の研究会でも最新布石や流行布石が俎上に上がることはあるはずで、様々な研究はされているはずだ。
 中韓が日本と決定的に違う点は、主題(研究されシステム化された布石手順)が実戦に頻繁に登場しうるということにある。韓国囲碁年鑑などを並べればわかることだが、あきれるほど同じよう布石が登場する。これはそれでよしとする対局者の同意があってはじめて成り立つことである。研究成果が頻繁に実戦で使用でき、またそれが研究対象になるという連鎖が起こっている。
 それに対して日本ではどうか。日本では同じ布石を執拗に繰り返すことは好まれない。山下敬吾には山下敬吾の、張栩には張栩の「好みの布石」というものはあるが、あくまでも個人的な流儀である。張栩がタイトル戦で披露した布石が、翌週には棋院で何局も出現しているということはほとんどない。あるとしても「中国流」とかといった大雑把な分類で同じという程度で、韓国のように「30手まで全く同じ手順」が量産されることはないのである。
 10局の碁が打たれたとして、日本では10局別々の碁になり、そこから得られる成果もそれぞれ個別的なものだ。中韓では、その10局に共通のテーマ(システム化された手順)があり、そのテーマに関しては一気に10局分の成果があがることになる。それが研究速度の違いになる。

 集団研究とは、棋士間に問題を共通化し、実戦でもそれを共有する同意がなければ成り立たない。日本の棋士には伝統的に「碁を創る」というような芸術家気質、職人気質のこだわりがある。日本でシステム布石の研究が進まないのは、研究会が行われていないことに原因があるのではなく、棋士個人の個性を大事にする風土が、集約的な研究と相容れないものがあるからだといえる。

 では日本の棋士も意識を変えればよいということになるが、そう単純に割り切れない問題もある。それはまた次の機会に。
  
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2009年02月20日

現状をよく見る

 今日は棋聖戦2日目。ここまで細かい勝負が続くものの、ちょっと盛り上がりに欠ける気がするのは気のせいでしょうか。

 棋聖戦の裏で(棋聖戦の方が裏なのかもしれませんが)、農心杯終了。初出場李世石が常古連覇で韓国優賞となりました。最終戦は李世石VS古力はすごい碁でしたね。素人目に白の序盤作戦はあまりいけてない気がしましたが、その後の進行を見るとものすごい強手連発で目が回りそうです。

 今回農心杯で日本は1勝のみ。例によって国際戦で負ければ、ネット上で日本棋院や日本棋士バッシングがされます。ファンの心情としては仕方のない面もあると思いますが、一方でやや冷静さを欠いているように思いますね。
 日本棋院が一般への普及事業を怠ってきたことは明白で、今現にそのツケを払わされており、その点で日本棋院は批判されて当たり前でしょう。ただ日本代表選手が対局に負け続けているのは、個人としての努力不足ではなくて構造的な問題なのです。出場した棋士を過度に非難するのはどうかと思います。

 私見では日本の「囲碁国力」は既に中韓に大差をつけられていて、こういう結果がでるのは止むを得ないと考えています。
 「囲碁国力」とは、囲碁人口と技術の成熟度(集積度)を掛け合わせたものですね。日本は昔は囲碁人口が多かったですし、江戸時代以来の技術研究の積み重ねがあり、文字通り世界最強の時代がありました。しかし20世紀後半に中韓が囲碁に本格的に取り組み出し、技術面で日本に追いつきました。しかも中韓が囲碁人口を爆発的に伸ばしたのに対して、日本は減少傾向にあるわけで、そこから導き出される結論は明白だと思います。技術レベルが同じならば、たくさんの人間で切磋琢磨している集団の方が勝つに決まっています。実は囲碁人口の比率から考えれば「世界戦でたまにベスト8に残れる」ことは善戦とさえ言えるのじゃないでしょうか。
 
 そういった現実を踏まえた上で、今後どうしてゆくか建設的な話をすべきだと思います。
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2009年02月18日

こどもの女流棋戦

 日本の高校生以下対象のこども大会を書き出してみるとこんな感じになります。

 高校囲碁選手権(男女個人戦、男女団体戦)
 高校総合文化祭囲碁部門(男女個人戦、県選抜団体戦)
 ボンド杯シニアの部(男女混合個人戦)
 ボンド杯ジュニア本因坊戦(小中混合個人戦)
 少年少女囲碁大会(小学生個人戦、中学生個人戦)
 小中学校団体戦(小学生男女混合団体戦、中学生男女混合団体戦)

 結構いろいろありますね。
 私の時代は、少年少女と高校選手権、そして総文祭しかなかったですから、状況はよくなりました。あとはこの大不況のなかでどれだけこの状態を維持できるかですかね。

 囲碁界はプロもアマも一般棋戦(男女混合)と女流棋戦(女性のみ)という区切り方が主流です。女性の方が(両方出られるという点においては)お得という状況です。
 こども大会に関してはちょっと特殊で、中学生までは一般棋戦のみで女流棋戦は行われていません。そして高校大会は男女を完全に分けて行っていて、囲碁界の中ではちょっと珍しいことになっています。これは高校囲碁連盟とかかわりがあるのではと推測しますが、どうなんでしょうか。最近新設されたボンド杯のシニアの部は、運営母体が高校囲碁連盟と関係ないので一般棋戦(男女混合)の大会となっていたります。
 
 前々から感じているのは小中学生年代でも女流棋戦があれば普及に大きな効果があるのではないかということです。こどもの囲碁人口は少ないことも問題ですが、男女比が偏っていることも問題だと思うのです。やはり女性に普及しないと囲碁そのものが社会に認められないですからね。個人的にはボンド杯で高校の部を作るよりも、女流の部を作った方がよかったのではないかと思います。

 
 
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2009年02月16日

棋書のサイズ間違いについて

 囲碁の本は随分読んでいますが、意外に重要なのが本のサイズ。内容に合った読みやすいサイズというものがあり、それを外すと内容がよくても印象が落ちたりします。

 あまり一言では説明しがたいですが、基本ラインとしては打碁集は大き目でハードカバーがよく、詰碁集などはコンパクトなサイズでソフトカバーというのが基本ラインでしょうか。入門初級系は、薄いくてすぐ読み終わりそうな感じの本がよいと思っています。
 打碁集はサイズが小さいと棋譜が見にくいですし、ページを開きっ放しにしておけないと棋譜並べがしにくいという事情があります。詰碁集などは全局図を使うことはまずないのでサイズが小さくてもさほど見にくくなく、携帯して空き時間に取り組んだりすることを考えれば新書版、文庫版などのサイズが使いやすいです。

 個人的にサイズ間違いをしていると思うのはこんな本。



基本的なヨセ手筋の本で、書店で立ち読みした印象では悪い本ではなさそうです。しかし、サイズが大きすぎて間延びした感じです。手の込んだ創作詰碁などで大判というのは多少許せるのですが、基本問題集で無駄に大きいとなんだかぼられているような気分になります。
同じ李昌鎬ヨセ本でも『神算の世界』のように難解で濃厚な内容ならばこのサイズでよいのですが。



 張栩の詰碁集も第2作(特選)の方がコンパクトでよいですね。
 全般的に毎コミュの詰碁本のサイズには不満があります。


 
posted by das53jp at 11:20| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

新聞棋戦とブログ

 日本の棋戦の中心は新聞碁で、新聞というメディアのお陰で囲碁界は発展できたといえます。不景気ですが、新聞社さんには今後も囲碁界をバックアップしてほしいですね。


 ただ問題は新聞観戦記。ネットも発達した今、1局を1週間かけて紹介するこの形式では、情報の鮮度が落ちてしまうので以前ほどの魅がなくなってしまっているのが現実だと思います。新聞から囲碁欄が消えるのは囲碁界にとって損失ですから、囲碁欄を盛り上げることは大切だと思いますが、考えれば考えるほど難しいですね。

 昔はプロの対局というのは一般人には遠い存在で、だから観戦記に書かれている情報が読者をひきつけたという面があったでしょう。また棋譜そのものもなかなか手に入らないから、囲碁欄が重要な情報源でもあったわけです。いまや3大タイトル戦はカメラが入ってライブ放送されますし、棋譜はネットでリアルタイムで解説つきで見られます。観戦記の持っていたいくつかの特権は剥奪されてしまったわけで、これは昔に比べて大きなハンディキャップでしょう。速報性やビジュアルのわかり易さに対抗するために残された手段は、対局者の内面や人間性を掘り下げていくところしかないのですが、なかなか難しいことです。

 それに対して、最近面白いのがブログ。「たかお日記」が画期的で、なんと対局した直後に感想が書き込まれています。参考図もちゃんと掲載。こういう記事を読むと、総譜を見たくなりますよね。
 新聞社がこうした動きにしっかり連携をとれば、少なくともウェブでの囲碁欄のページビューは伸びそうだし、棋戦への関心も高まるのではないかと思います。囲碁欄保護のため、棋譜の公開にはかなり制限があるのが現状ですが、少し緩和してブログなどで取り上げやすくするなどの措置はやってみてもよいのでは。 
 朝日新聞はウェブ上に観戦記を上げていますが、こういうのもトラックバックを受け入れられるようにしたらもっと活性化すると思います。中には迷惑なものもあるかもしれないですが、書き手にとってレスポンスがあるというのは何よりの刺激ですから。そういうなかから新しい観戦記の形がうまれるのではないでしょうか。
posted by das53jp at 14:20| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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